心にうつりゆくよしなしごとをこそ書きたい

5年近く前に挫折したホームページ作りでしたが、最近はブログとかいうものがあって簡単に自分のページが持てるということなので、始めてみようと思い立ちました。
内容は、読んだ本、今日のご飯、日々雑感の予定。なぜ当時挫折したのかと言えば、技術的なことというよりもむしろ、コンテンツと言えるものが自分になかったから。他の人のHPを見ると、絵があり、データベースあり、独特の文章、哲学があり。なまじネットサーフィン好きだっただけに、これと言って特筆すべきことのないHPなんて作っても…、と途中で気がついたからなのでした。
私は趣味は狭く浅く「何となくすき」というスタンスで足踏みしがちなのです。わりと器用なのだけれど根気がない。ちょっとやって気が済んでそのまま放置、ということが多いのです。これはこれで日々は他愛もなく楽しいのだけれど、過ぎていった後に何も残らないではありませんか。こんな私と対照的に、連れ合いは何でも残しておかずには気が済まない人。写真好き、古い物好き、押入の奥には修学旅行土産のペナントとか取ってあるような(私はそもそもそんなものは買わない)。彼はそんな性質の一環として読書録をつけているようです。
この春くらいから図書館に通うことを覚えた私が、家で昔ちょくちょく読んでいた作家の短編集を読んでいると、そういうものを読んだ時こそ読書録つけた方がいいよ、と彼が言いました。そのときは何ともおもいませんでしたが、よくよく考えてみると、そんな短いものだからこそ、ちょっとよかったところや、発見があっても忘れてしまいがちです。そうでなくても、このところとみに忘れっぽくなっているのです、そうも易々と忘れてしまうといくら娯楽のためだけの読書とはいえ、読んだ意味さえなくなってしまいます。栞代わりにちょっとメモしておけばその一文から、物語ならば文字通り栞のところから読むように話の流れに戻れるでしょう。随筆でもその雰囲気を思い出すことができるでしょう。また、無理めの読書に挑戦した時も、一言でも感想を書けば、次に同じ類の本を読むときはその問題点を持った状態でスタートできるでしょうし、反対に問題点から本を探すこともできるでしょう。
過ぎていった後何も残らない、ということが前は全く気になりませんでした。10代の写真なんてアルバム1冊もないほど。その頃は毎日がとても長かったし、先々限りなくいろいろな体験ができるような気がしていました。だからその毎日を何かの形にして蓄積しておこうなどとは考えなかったのです。でもそれから10年ほどたってみると、1日にできることはごくわずかであって、そのことから考えると何にも身を入れないで一生を終えることはありそうに思えます。そうすると現実にも、そして例え話としても栞を挟まない読書はあまりにも勿体ないと思われるのです。
だから、最近は毎日の他愛のない楽しさを、残らなくてもいいから何かの形に変換しておきたいと思うのです。その手始めが現実としての栞、つまり読書録ということで、この日記を始めたいと思います。
ちなみに今日のごはんは連れ合いがいないのであっさりと。
昨日の残りの炊き込み(人気のなかった煮物のリメイク)ご飯にだしをかけて豚飯風。
昨日の残りの茄子の田舎煮(「今日の料理」6月号レシピ、じゃこ→干しエビ)
実家の茄子の煮物は大抵干しエビが入っていました。これはちょっと唐辛子入れすぎたかも。

本は

新装版 鬼平犯科帳 (2) (文春文庫)

新装版 鬼平犯科帳 (2) (文春文庫)

先日中村吉右衛門の盟三五大切(かみかけてさんごたいせつ)見てきました。